昭和54年01月16日 朝の御理解



 御理解第36節
 「日本国中のあらゆる神をみな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人にものを頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず、大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」

 昨日は、富久信会でございましたから、あぁ皆さんのお話を聞かせて頂いたが、信心が有り難うなり、楽しゅうなり、愉快にもまでもと、これはまぁ、合楽のまぁキャッチフレーズですけれども、それが宣伝文句だけではなくて、本当に合楽の場合は、その気になれば、誰でもそういう愉快なとまで思われる、一つのリズムが出て来て、そのリズムに乗った信心さしてもらうところに。
 寒さもなからなければ眠さもないきつさもないもうリズムに乗って、例えば行く時には、調子に乗って行く時ですから、もう楽しゅうして有り難い、ね。それをリズムなしにただ、一生懸命、ただ修行という時にはやはり難儀であり苦労ですけれども、まぁそこも過程として尊いことなんです。
 昨日特に、松栄会の方達の、勿論御商売しとる方達ばっかりなんですけれども、もうその発表を聞かして頂きよったら、あぁもうあの若さで信心が有り難うして有り難うして応えんということを言ってますですね、本当にけれども、まぁ、若いとは言いながら、まぁ30、もう5・6か40近い方達ばかりですから、まぁ私から見りゃ若いけれども、もうなら私の30歳時代には、もうとにかく有り難うして有り難うして、人がもうどんどん私と話をして助かっとった時代ですから。
 その早いとまではないけれども、人間やっぱ35にもなる頃には、信心もそこまでの調子が出るくらいのおかげを頂かにゃダメです、一生調子が出らんなりに、その、お参りを続けただけではやっぱりダメ、楽しいものに有り難いものにならなければならない、そのことを昨日、あの部屋へ下がってから休む前に、お礼申さしてもらいましたら、今私の部屋に、あの万年青(おもと)が生けてあるんです、ね。
 皆さんもご承知でございましょうけれども、万年青は葉組みが大事なんですよね、波瀾なんかと同じで、生けるのにまあ正式なあの言うなら、あの御生花ですから葉組みそれに、根元に万年青の真っ赤な実がこうやっておる、だからこのねこの真っ赤な実があって、この生花は生きるんです、これがもしあの真っ赤な実が根元になかったら、ただ形は整のうておっても、その花の良さというのはありません、それを頂くんです。だから例えば勿論その赤い実だけがいっちょポツンとあったってどうも仕方がありませんけれども。
 これが例えば、なら教会長なら教会長である私の信心が、何時もがですいわゆる万年青(おもと)というのは、万年が青と書いてあります、ね、もう何時も何時も生き生きとした喜びに満ちた言うなら、しかも形の整のった姿勢の出来た、言うならば教会長がおって、してその根方にその丸いつぶつぶのあの、まっあのう万年青の実ですよね、実が根元にこう根占になってあって始めて、その万年青の花が完璧だと、ね。
 昨日私はその事を、思わして頂いたら、その万年青を頂くんです、だから今の合楽の場合は、まぁ形が整うておるかどうか分からんけれども、私の信心に、根元にそういう生き生きとした喜び、言うならば、信心がもう有り難うして有り難うして、しかも合楽の中堅層の若い方達が、それを皆発表しておるということは、素晴らしいことだと、言うことでございます。
 昨日は、丁度午後の奉仕をさせて頂きます時に、あの椛目から、あの愛子が参って参りましてから、いつも、何時ごやここに夫婦で修行にみえておった先生でした、大変おかげを頂いて帰られたんです、でその後修行、また修行に来たいとか、十三日会とか神愛会には是非出てきたいと言っておられましたけれども、色々教会の事情で出来ない、難儀な問題も山積みしておる、ね。
 けれども、おかげを頂いて合楽の、信心に触れておったおかげで、何とはなしにそれが、合楽の信心が支えにはなっておるという手紙とお初穂とお供えとを、椛目に送ってきてある、それを昨日ここへお供え持って来てました。ですからそん時私がしきりに心の中に思うておった事はね、この合楽でおかげを頂くという、なら今日の御理解で言うならば、楽しゅうして有り難うしてということを、をしかも愉快にまでなるほどしの信心というのは、どういう信心かと言うと。
 昨日、松栄会の方達が発表しておりましたような、まぁ信心になることなんですけれども、私はここで思うておったことは、この合楽理念合楽理念とこう申しますけれども、お互いの、例えばなら商売をしておるならば、もう商売は合楽理念を持ってする他はない、ね、言うならば、百姓は合楽理念を持ってする他はない、ね、言うならば、お取次ぎ、この布教、金光教の布教は合楽理念を持ってする他はないと、いうことに、ここんところをしきりに思うておった時でした、ね。
 布教は合楽理念を持ってする他はないと、末永先生は「海外布教は合楽理念を持ってする他はない」とこう言ってる、だから合楽に、手続きは違うけれども、他所の教会からみえられて、まぁ合楽の信心を一生懸命まあ研究しておる、「うんしてここが良かな」と、「ここが有り難いな」という程度に頂いておるところでは本当の御比礼は立たないっちいうこと、もう合楽一本にですね、合楽理念一本に絞って、合楽理念を持ってする他ないという時に初めて、あのここでえぇ。
 そういう、例えば富永先生とか末永先生なんかの場合ですね、壱岐の、方のようにもう合楽一本に絞って、合楽理念を持ってする他はないという、言うならば、芯が出けた時に始めてその教会に、言わば合楽という御比礼が輝くんです、そこでうんなら、お互い合楽にご縁を頂いておる御信者の皆さんがです、はたして「家庭生活は合楽理念を持ってする他はない」と言えれるほどしに、合楽理念をばっちりと、受けとめて、日常生活の上に頂いておるかどうかということ。
 また頂いておらなければです、合楽理念を持ってする他はないと言う事になってこないと言う事、今日の御理解は日本中のあらゆる神を信心するとこう言うが、ね、それではあんまりの信心じゃ、なら金光教の信心をしておってもです、どこの先生の流儀もある、ここの先生の流儀もある、合楽のここんところを頂いてきた、そして合楽の信心が支えになっておるという程度では、それ支えになっておるという程度だと言う事です。
 御比礼ということまでにはなってこない、ね。やはり、この一心と定めるということをね、私は、今日は皆さんに聞いて頂いた。一心と定めるというとは、「もう私は合楽の信者でございます。」とこう言うだけではなくて、ね、合楽の信心を頂いたら、もう合楽理念を持ってする他は、この事もあの事もないと、極めるところまで、極めた時にですね、私はあの、いわゆる、合楽の御比礼に浴することが出来る。
 おかげを受けるというのじゃない、ね。言うならば、それにはね、いよいよ合楽理念を持ってする他はないという、信心のところから、言うなら真っ赤なあの、万年青の実ではないですけれども、そういう生き生きとした、赤い心が合楽理念に基づいて示して行けれるおかげ、ね。なんっ、布教は合楽理念を持ってする他はないと。 
 昨日はここの学院でまぁ修行中の先生方が、今朝帰るんですけども、本部に出さなきゃならないレポートが銘々ございます。それをあの読むっ一人一人の読ませて頂いて、まぁもうようもこれだけの合楽理念を、しかも7人ですかの者があらゆる角度から、合楽理念を唱えて、その合楽理念の素晴らしいことを、また今度帰って特に頂いたことを、皆便箋3枚ばっ、か4枚かにびっしり書いて、えぇのを読ませて頂いてです。
 はぁもう本当に「合楽理念を中に入って広める」とこう仰るが、こういうのがもし先生方がご覧になって善義を持って見られたら、合楽の信心を見直されるのだろうと思うくらいに、素晴らしい、そのまとめ方をしておるのに驚いたんですけれども、おそらくなら皆さんににもです、まとめなさいと言うたら、あんな素晴らしいまとめ方が出けっ、もっと素晴らしいまとめ方が出けるかもしれない。
 うんけれどもそれがまとめられただけではなくて、皆がまあ口を揃えて言ってますけれども、これを自分の身に付けて、合楽理念なりの、私自身が実証者にならなければということを書いてあるわけですね。だから合楽の信奉者の皆さんがです、確かに合楽で言われるところの、有り難うして勿体無うして、しかも愉快にまでと言う様な、信心がです、ただキャッチフレーズだけではない、宣伝文句だけではない。
 事実合楽理念を行じたら、本当に楽しゅうなるんですよ、有り難うなるんですよと、それにおかげが伴うてくるんですよ、という実証者にならなければならない、それにはね合楽理念一本に絞って、ね、聞いておるだけじゃつまらん、ね、どんなに合楽理念がこうとこう、説明が出けただけでは出けん、自分がその実証者になることのために、もうそれこそ一事でも良いから、それを頂きぬき徹しぬくところからです。
 なら昨日若い、松栄会の方達が発表しておりますことが、ならそれがそうに合楽理念を持ってじゃないでしょうけれども、この事だけには合楽理念を持ってといったような、徹した生き方の中から、その有り難いものがついてきておるです、有り難い心の状態が開けてきよるです、これが育って行く限り、言うならば、うん、おかげにならないはずはないという風に思わしてもらいます。ね。
 これは「日本国中の神を信心するという、それはあまりの信心じゃ」ということを言っておられますが、なら合楽に御信心を頂いておるからと言うて、合楽の信心の内容を知ったからと言うてもですね、ただ知っておるだけではあまりもの信心、ね、一事でも良いからそれを、一心に信じ貫かしてもらうというところにです、ね、「神に一心と言うたら、一つじゃ」と、ね、「神信心もこの一心を出すとすぐにおかげが受けられる」ということでございます。
   どうぞ。